パラレルワールドに導かれた一人の中年男の冒険と葛藤の物語
Synopsis(あらすじ)
心地よい風が吹いてくる。針葉樹の森の中に彼は立っていた。耳を澄ますと、木々のざわめき、小鳥のさえずり、そして風がかすかに流れる音、、、。それ以外は何も聞こえない。そのとぎすまされた空気の中、そっと目を閉じると、不思議なくらい彼の心は落ち着いていた。そしてこのまま、ずっとここで大きく呼吸し続けたい、そんな気持ちになるのだった、、、。
出し抜けにけたたましい音が鳴り響いた。気がつくと彼はいつものベッドの上だった。目覚ましが鳴ったようだ。夢か、、、。しかしとてもいい夢だった。こんな夢ならもう一度見たい。そしていっそあのまま夢から覚めずにいられたら、、、そう思うのであった。
ここに一人のうだつのあがらない中年サラリーマンがいた。富士岡譲二、47歳。バブル期に中堅私立大学を卒業し、中小製薬会社に入社した。やがてバブル崩壊。彼の勤務先でも成果主義が導入され、人員削減とIT化が加速する。パソコンに強い若い社員がどんどん抜擢される一方、それが苦手な彼は若い社員たちにバカにされ、だんだんと窓際へ追いやられてしまった。そのうえ、世界的な業界再編の波にのまれた会社は、外資系製薬メーカーに買収された。上司はアメリカ人となり、当然のように社内の公用語は英語になった。英会話が得意でない彼はますます苦境に立たされ、周囲からとり取り残されていったのである。そして長引く不況の中、業績が回復しない会社がそんな彼を放っておくわけがない。老兵は去れと言わんばかりにやんわりと退職を迫られた彼は、ほどなく会社を追われることとなった。だが、彼の不幸はそれだけでは終わらなかった。
リストラを契機に妻にも愛想をつかされ、ついには離婚を余儀なくされてしまった。思えば、妻との結婚も当時の上司の顔を立てただけの見合い結婚だった。本当に彼女を愛しているかどうか、わからなくなる時もあった。それでも自分なりに愛そうと努めてきたつもりだった。ある意味、彼女には可哀想なことをしたと思っている。全ては自分に甲斐性が無かっただけなのだ。現に、生活費を補うためにパートに出た妻は、そこで出会った若い男と家を出て行ってしまったわけだから。
確かそんな頃だったと思う。彼はその "夢" を見たのだ。いつも同じ場所で、同じ不思議な感覚につつまれて、、、。本当に奇妙な夢だった。それからというもの、時々その夢を見るようになった。そして今も見続けている。自分の置かれている状態が最悪であればあるほど、その不思議な夢に癒されるのだった。
しかし、現実は容赦なく彼に重くのしかかってきた。仕事と家庭を一度に失い、家賃を滞納してアパートまで追い出されてしまった。そんな彼が高架下や公園の片隅に寝泊まりするようになったのはむしろ必然と言えた。いわゆるホームレスというヤツだ。朝から安酒をあおり、泥酔し、精神が錯乱する毎日が続いた。まさか自分がここまで落ちるとは思わなかった。若い頃はそれなりにバリバリやっていたし、会社でも一時は有望視されていたと思う。幼い頃に父を亡くし、就職が決まってまもなく母を亡くし、知り合いもいなかったこの大都会で、ひとり戦っていたあの頃。仕事はかなりきつかったが、体力だけは自信があり、若さに任せてがんばったものだ。しかし知らず知らずのうちに多くのストレスを溜めていたのだろう。今となっては身も心もボロボロ。もう限界だった。
ある朝、わずかな金銭を握り、彼は故郷へ戻った。すでに生家は空き家となり、クモの巣と埃だらけであったが、彼には安らぎを与えてくれる聖地のように思えた。とはいえ状況が変わるわけでもなく、ただむなしく日々が過ぎていった。
季節は巡り、やがて夏が来た。この辺りでは晴れの日が少ない。見上げれば、今日も曇天の空がすごく低く見えた。彼は、ただ呆然とその空を見つめてながら思う。この世のしがらみを全て断ち切って、どこか遠い所へ行きたい、、、。そうだ、あの森だ!あの夢で見た針葉樹の森こそ、自分にとって永遠の楽園なのではないだろうか、、、。そしてついに、彼はある決断を下したのだった。
真夏とはいってもなんだか肌寒い午後だった。鉛色の空からは霧雨のような雨が降り続いていた。こんな天気だからか浜辺には人っ子一人いない。全く今の自分にはおあつらえむきの状況だ。何もかも失った彼にとって、"生きる" ことは何の意味も価値もない。もはやこれまでであった。しかし、彼は不思議と死ぬことが恐くなかった。いや、むしろある種の安らぎ、そして希望さえ感じるのだ。今を生きてゆくことこそ、彼にとっては地獄だった。死ねば、もしかしたらあの "森" へ行けるのかもしれない。そして、そこはきっと自分にとっての "天国" なのではないだろうか?そんな思いでやって来たこの故郷の海は、静かに彼を迎え入れてくれた。素足に感じる波しぶきは不思議と冷たくはなかった。やがて混濁する意識の中で、彼はつぶやいていた。
「父さん、母さん、これから還ります、、、。」
しかしこの出来事は、これからはじまるとても不思議な冒険の、ほんの序章にすぎなかった、、、。
Story
「もし!」
遠くで誰かが呼んでいる。
「もし!」
だんだんと意識がはっきりしてきた。
「もし、しっかりしなさい!」
その呼び声に、富士岡譲二は目を覚ました。そこは見覚えのある浜辺であった。体はだるく、日射しはまぶしく目がつぶれんばかりだった。そして、目の前には白装束をまとった白髪の老人が立っていた。
ここはどこだ?俺は一体どうしたんだろう?
「気が付いたようだな。」
心の中の声がまるで聞こえたかのように、老人が話しかけてきた。
「お前は戻って来たのだ。」
「戻った?」
「そうさ、ここはこの世という名の地獄だ。」
そうか。譲二は思い出した。自分はあの時死を選びこの浜辺に来た。そしてそのまま海へ身を投じたのだ。そこからの記憶ははっきりしないが、いずれにせよ、死にきれなかったようだ。
「あなたは誰ですか?」
「予はお前を助けに来たのだ。」
助けにだと?助けてくれなくて良かった。自分は生きていてもしょうがないのだ。まったく余計なことをしてくれた。譲二は心の中で苦笑した。
「そんなことはないぞ!」
だしぬけに老人が叫んだ。譲二はびっくりした。何も言ってないのにどうしてわかるのだろうか?
「お前には大事な使命があるのだ。」
「使命?」
「そうだ、これを磨くがいい。」
そう言って老人はなにやら塊をくれた。それは大きなヤツデの葉にくるまれた一握りくらいの小さな石であった。一体何の石なのだろうか?何かの原石なのか?よくわからないが、とにかく汚い石であった。
「これは何ですか?」
「それは ”予知の石” である。それを磨けば、お前の未来が見えるはずだ。」
「未来?どういうことだ?!」
叫びながら顔をあげると、もう老人は消えていた。夢でも見ていたのだろうか?しかし、手の中には確かに "石" があった。あいつは一体何者なんだ?そしてなぜ俺を助けたんだ?それにこの石は、、、?考えれば考えるほどわからなかった。しかし、現に自分は死に損ねてしまった。これからどうすればいいのか、今の譲二には何も考えつかなかった。不思議なことに、もう一度死を選ぶ気にはなれない自分がいたのだ。気が付くとそうとう腹が減っていた。何か食べたい。そう思い起きあがった。すると、その拍子に地面に何かがこぼれ落ちた。木の実だ。足元には洋服も用意されているではないか。きっとあの老人が置いていってくれたのだろう。木の実はとてもいい匂いがした。譲二は夢中でそれをかじった。美味い!何の実かもわからないが、何となく体が熱くなり、力がみなぎる感じがした。ひとしきり食べ終わり落ち着くと、もうあたりはとっぷりと日が暮れていた。とりあえず今夜はここで野宿するか。もう帰る場所もないのだ。いずれにしろ、こんな生活をずっと続けられるわけがない。一度は死のうとしたんだ。今ならなんでもできそうな、そんな気がしていた。明日は街へいこう。全く知らない土地でやり直すんだ。譲二はそんなことを考えながら、いつしか眠りに落ちていった。
目が覚めた。あたりはまだ薄暗い。明け方だ。もう少し眠っても良いだろう。譲二はまた眠ろうと寝返りをうった。すると目の前の暗がりで何かがぼうっと光っていた。なんだろう?譲二は起きあがり、その光に近づいていった。そしてすぐにそれが何かわかった。石だ。あの老人にもらった汚い石が光を発しているのだ。あの老人は確か、"予知の石" と言っていた。自分の未来が見えると。本当だろうか?どうせ眉唾に違いない。しかし今の自分にはもう、そんなことにでも頼るしかないのではないか。全てを失ってしまったのだから。よし磨いてみよう、この不思議な石を、、、。譲二は石を磨き始めた。老人がくれた大きなヤツデの葉で一生懸命磨いた。すると不思議なことに、その石は磨けば磨くほど透き通ってキラキラ輝きだした。そして夜が白々と明けるころ、石はまるで水晶のように透明な石になっていた。しかも見る方向によって様々な色に見える。なんて美しい石なんだ。しばらく見とれていると、石の中に何か "映像" らしきものが映し出されている事に気付いたのだ。そしてそれはだんだんはっきりしてきた。なんと!そこに映っているのは紛れもない "自分" であった。もしこれが本当に予知の石であれば、中に写る自分は "未来の自分" のはずだ。しかしそこに映っているのは、工事現場で汗だくになりながら働く男の姿であった。予知の石、、、、譲二は愕然とせざるを得なかった。世の中にうまい話なんてありっこない。落ちるところまで落ちた中年男の生きる道なんて、せいぜい日雇い労働が関の山だ。しかし今更何をあがいても仕方がない。石が本当の未来を見せているなら、それが現実なのだろう。あたりはすっかり明るくなっていた。譲二は重い腰をあげて歩き出した。
譲二は街へ出て仕事を探した。辿りついたハローワークで、案外あっけなく職につくことができた。石の告知通り、工事現場の日雇い労働だった。石は確かに嘘をつかなかったのだ。全く不思議な事である。もしかしたら、本当にこの石が自分を導いてくれるかもしれない。そう思い始めたのだった。その日から譲二は毎日毎日、朝から晩まで、体力の続く限り一生懸命働いた。現場の監督は厳しく、かなり嫌な感じの男だった。ふと、昔会社にいたころを思い出した。あの頃と同じ?いや今の方がまだましかもしれない、そう思うと乗り越えられる気がした。
3ヶ月あまり経ったある日の明け方、また石が光りだした。譲二は恐る恐る石に映し出される映像に注目した。知らない駅に "自分" は立っている。しばらくすると電車が入って来た。それに乗り込む" 自分" 。やがて電車は走り出す。ただそれだけであった。なんだこれは?何を意味するのか皆目見当がつかなかったが、それが自分の "運命" なのであれば身を委ねるしかなかった。
その晩、珍しく現場監督の男が声をかけて来た。飲みに誘われたのである。譲二はその男のことをよくは思っていなかったが、久しぶりの酒だし、しかもご馳走してくれるというので、素直に従うことにした。男と飲みながら、しばらくたわいない話をした。譲二も特に積極的に話すわけでもなく、仕事上のつき合いに留めるつもりでいた。やがて2人とも酔いが回るころ、男がおもむろにある奇妙な体験を語り出した。それは男が今の現場の仕事に落ち着くまでの経緯であったが、不思議な事に、自分と非常に境遇が似ているのだ。いや似ているどころか、ほとんど同じであった。仕事や私生活で苦悩し、死を選んだが死にきれず今に至ること、さらに驚くべきは、男を死の淵から救ったのは白髪の老人であったことである。しかもその老人は石をくれたそうだ。まるで自分と同じではないか。ただ一つだけ違うのは、男は老人にもらった汚い石をその後すぐに捨ててしまったのだそうだ。男は言う。その石を持っていれば何か違っていたのでないか。しかし、それも今となっては想像にすぎないと。男は悲しそうであった。そうか!自分は捨てていない。その石を今まだ持っているのだ。このままでは終わらない、何だか漠然とそんな気がした。譲二は石の事をずっと黙っていることにした。
かなり酔っていた。気がつくと時計はとっくに午前 1 時を回っていた。譲二が住んでいるバラックまで2キロ程である。この仕事について以来、通い慣れた道だった。しかしこんな深夜に通るのは始めてのことだ。注意してみれば、結構いろいろな店があったりする。どのくらい歩いただろうか、譲二は小さな看板を見つけた。そこには "駅入口" と書かれていた。はて?こんな所に駅があっただろうか?いったいどこの路線なんだ?そう思いながら看板の矢印が示す方向を見ると、狭い路地の向こうに小さな駅があった。譲二はなんの気なしにその路地をぬけて駅前に出た。駅前はすこし広くなっていて、上に大きく "現実駅" とあった。"現実" ?そんな駅名は聞いたこともなかった。さらに改札口には、"楽園行き直通" と書かれた札が下がっていた。楽園行き? "楽園" って駅は一体どこにあるんだろう。全く奇妙だ。その時だった。パッと目の前が明るくなり電車がゆっくりと入ってきた。そしてアナウンスが聞こえてきた。
「まもなく、楽園ゆき電車が発車します。ご利用の方はお急ぎください!」
時計の針はすでに午前 2 時を指している。思ったより時間が経っていることに驚いた。しかも、こんな時間に動いている電車があるなんて、、、。駅には自分以外人っ子ひとりいない。譲二は目の前の出来事にただ茫然と立ちつくしていた。すると電車から車掌らしき小柄な男が現われ、近寄ってきた。
「お客さん、乗りたいんだろう?急ぎなよ。」
「らっ、楽園っていったいどこにあるんですか?」
譲二は動揺しながらも思い切って尋ねてみた。しかし車掌はその質問には答えずにこう言った。
「お客さんは、今夜選ばれた人間なんだよ。」
「選ばれた?」
「そうさ、選ばれたんだ。お客さん、この世の中にうんざりしているんだろう?だったらこの電車に乗るんだよ。そうすれば、きっと理想の "楽園" に行けるはずさ。さあ早く!」
譲二はもう頭が混乱して、何が何だかわからなくなっていた。そんな時、ふとあの石のことを思い出した。そう、あの石には電車に乗る「自分」が映っていた。それと同時に、さっきまで一緒に飲んでいた現場監督の男のことも脳裏に浮かんだ。あの男は石を信じなかったために、つまらない現実社会であえいでいる。たとえ夢でも良い、石を信じてみよう。譲二はその電車に乗り込んだ。
電車は一両のみで、まるで路面電車のようだった。車内はがらんとしていて乗客はどうやら自分一人だけのようだ。座席に腰をおろすと、電車はそれを待っていたかのようにゆっくりと走りだした。外は真っ暗で何も見えない。しばらくするとさっきの車掌がやってきた。車掌は目の前に立ち、譲二の頭を両手で包みこむようなポーズをとった。そして一言二言呪文のようなものを唱えると、譲二は何だかとてもいい気分になってきた。
「これから幸福の楽園へまいります。あなたにとって楽園とはどんな所ですか?あなたの好きな所へ行くことが出来ますよ。」
車掌の問いかけに、譲二はいつのまにか答えていた。
「針葉樹の森、、、」と。
その言葉がまるで麻酔のように、譲二はだんだんと深い眠りに落ちていった。
目覚めるとまだ電車の中であった。そう、昨晩乗った不思議な電車にまだ乗っているのだ。これはやはり夢ではなかったのか、、、。車窓からは見知らぬ景色が広がっていた。一体どこを走っているのか見当もつかない。ただ言えるのは、とても美しい風景であることだ。紅葉した山々の赤が空の青と絶妙なコントラストをなしていた。電車は野を越え山を越え、どんどん進んで行く。どこへ行くんだろう?自分はこれからどうなるんだろう?そんな思いが頭をよぎることしきりであったが、不思議と今の譲二に "不安" の2文字は無かった。トンネルをいくつもくぐり、木々が鬱蒼とした林の中を走って行く。もしかしたらこの先にあの "森" があるかもしれない。夢に見たあの "針葉樹の森" が。そこへ車掌が現れた。
「よく眠れましたかな?」
「この電車は "楽園" というところへ行くそうですね。それはどんなところですか?」
譲二の口をついて出てきたのはそんな言葉であった。
「あなたが思い描く通りのところですよ。」
「それは、、、 “ 森 ” ですか?」
車掌はしばらく黙って車窓を見つめた。
「そうかもしれませんね。それは私にもわかりません。」
なんとも微妙な返答に、譲二は初めて一抹の不安を覚えた。車掌は続ける。
「あなたが理想とする場所へ行きたいのなら、乗り越えるべき試練があるでしょう。でもあなたならきっと乗り越えられますよ。楽園の探究者として申し分ないですから。」
そう言うと車掌は行ってしまった。一体どういうことだろう。試練?楽園の探究者?またわからなくなってきた。考えあぐねていると、またトンネルにさしかかり、あたりが暗くなった。しかし、不思議と車内の電気はつかなかった。その時、腰元に何か光るものがあるのに気付いた。石だ!ポケットの中で "予知の石" がまた光っているのである。譲二はその光る石を手にとり、じっと見つめた。ほどなく石にまた何かの映像が写し出された。そこには不気味な沼が見えていた。霧のかかった沼に向かって自分はたたずんでいる。するとそこに大きな水柱が上がった。そこで石は輝きを止めてしまった。なんだろうか?自分が行きたい場所はあの "森" のはずだ。薄気味悪い沼などではない。もしかしてそれが車掌の言う "試練" なのか?譲二の不安は徐々に大きくなってきていった。次第に日も暮れかかり、あたりは暗くなってきた。そこへ再び車掌がやって来た。そして、おもむろに譲二の頭上に手をかざしながら言った。
「明朝、目的地に到着します。あなたが幸福になれるように祈っています。ではおやすみなさい。」
譲二はそれに答える間もなく、再び麻酔にかけられたように眠りに落ちていった。
「お疲れ様でした。到着ですよ。」
車掌の呼びかけに、譲二は目を覚ました。電車はすでに停車していた。
「着きましたよ、楽園に。」
あたりは薄暗く、少し肌寒い。
「ここはどこですか?」
「あなたの目的地です。」
確かに周囲は木々が鬱蒼とした森であった。いや、森というよりジャングルといった方が正しいかもしれない。
「目的地?ここが?!」
譲二は半信半疑だった。一体どうなっているのだろう。こんな暗く寂しい場所が自分の理想の楽園であるはずがない。まして譲二が夢に見た "針葉樹の美しい森" とはかけ離れていた。
「この後、電車は回送になります。さぁ、早く降りてください。」
譲二は従わざるを得なかった。外に出るといよいよもってとんでもない場所であった。
「ここをまっすぐ行くと沼があります。まずはそこへお行きなさい。」
そう言うと車掌はまた電車に乗った。電車はゆっくり走り出した。譲二はただ呆然とそれを見送るしかなかった。流石にこれは騙されたかもしれない。そう思ったがもう後の祭りである。そう、自分は "予知の石" に身を委ねたのだ。なるようにしかならない。沼と言っていたな。確かに石にも沼が映っていた。とりあえず行ってみよう。譲二は歩き出した。
森の中にはまるで獣道のようなわずかな踏み跡が見えた。譲二はそれを辿って歩いて行く。ほどなく少し開けた場所に出た。しかし、あたり一面濃い霧につつまれていて何もわからない。水の匂いがする。どうやら "沼" に着いたようだ。それにしても薄気味悪い所である。ここで一体何が起こるのだろうか?譲二はだんだん怖くなってきた。すると急にあたり一面に立ちこめていた霧が徐々に晴れてきた。ふと気付くと周囲から聞こえていた鳥たちのさえずりが消え、静寂があたりを包んでいた。霧が晴れると周囲の様子がはっきりしてきた。かなり大きな沼である。しかもかなり淀んでいるし深そうだ。ここに落ちたら二度と這い上がれないであろう、そんな恐怖感すら漂う。すると突然、水面が七色に輝き出し、にわかにざわめき始めた。やがて沼の中央に大きな水柱が立ち始めたのだ。なんだこれは?!反射的に譲二は逃げようとしていた。もういても立ってもいられない。しかしなぜか体が動かない。まるで金縛りにでもあったかのように身動きがとれないのである。水柱は大きくなり、大きな雷鳴とともに雨が降り始めた。その時だった。一本の稲妻が水柱に向かって落ちたかと思うと、そこにとてつもなく巨大な物体が姿を現したのだ。
「うわぁ~!」
譲二は思わず悲鳴をあげた。現れたのはなんと "龍" であった。まさに古い中国の物語に出てきたような、大きな蛇かはたまた恐竜か、もうなんだかわからないが、とにかく空想でしたなかったような怪物が目の前に現れたのだ。
「ば、化けもの~!」
そう叫ぼうとしたが、それは声にならなかった。その巨大な龍は譲二を睨みつけ、語りかけてきた。いや、語りかけるというよりは、譲二の心の中に響くような言葉だった。
「おれの目を返せ~、返さねばお前を食らうぞ!」
龍は大きな口を開けた。もう駄目だ!自分はここで死ぬのか?何が楽園だ!結局騙されていたのだ。その時、ポケットの石がまた光を発し始めた。な、なんでこんなときに!
(ボァー!)
突然、龍が息を吐きかけてきた。ものすごい悪臭を伴った、凄まじい勢いの風だった。譲二はその風にあおられてその場に倒れ込んだしまった。その拍子にポケットから石が転げ落ちた。しかし石は輝きを止めなかった。そしてそこに映し出されているのは、なんとその龍に乗って空を飛んでいる "自分" の姿であった。
「一体どうなってるんだ!」
譲二はまたしても訳がわからなくなった。
「それだ、それがおれの目だ。返せ!」
龍はさらに迫ってくる。
「わかった、わかった、この石が欲しいなら、どうぞ持っていってくれ!その代わり、お願いだから開放してくれ!おれは針葉樹の森に行けると、騙されてここまで来ただけなんだ!」
譲二は心の中で叫んだ。すると、龍は石を拾うと自分の目にはめ込んだ。そのとたん、龍の体全体が輝き出し、灰色がかっていた体はみるみるうちに光輝く美しい緑色に変わったのだ。譲二は茫然とその光景を見つめていたが、ふと我に返った。こうしてはいられない。早く逃げなきゃ。いつのまにか体は金縛りから開放されていた。とっさに譲二は今来た獣道を走り出した。もう無我夢中であった。どのくらい走っただろう。あの駅はどこだ?どこまで行っても迷路のような森の中である。どうやら完全に道に迷ってしまったようだ。どうしたらいいのか全くわからない。譲二は途方に暮れて座りこんだ。かなり腹も減っているし、体力もすでに限界だった。譲二はその場に倒れ込み、気を失ってしまった。
「起きろ~!」
地響きのような声が響きわたった。それはまた "心の中の奥底に" である。譲二は目を覚ました。目の前にはさっきの巨大な龍の姿があった。この深い森の中で、こんな得体の知れない怪物に襲われたのでは、もう生きて帰るのは不可能だ。そもそも一度は死を選んだのだ。これが運命なら、それに逆らう必要はない。
(煮るなり焼くなり好きにしろ!)
譲二は心の中でそう答えた。
(お前はおれの目を持ってきてくれた。途中で捨てることなく、信じて持って来た。だからお前は食わない!)
なんだって?どうやら命だけは助かったようだ。待てよ。譲二は思い出した。そういえばさっきあの "石"、いやこの "龍の目" に、龍に乗る自分が映っていた。つまり自分はこれからこの怪物に乗って空を飛ぶってわけか?勘弁してくれ、、、。
(それは駄目だ!)
また心の奥で声が響く。
(お前には使命があるのだ。さぁおれの頭に乗れ!)
龍はそう言うと大きな頭を譲二の目の前に横たえた。その目はまた光っていた。そしてそこに一瞬何かが映ったのだ。それを見て、譲二は驚愕した。なんと、そこに映し出された映像は、まぎれもなく自分がかつて夢に見たあの "森" であった、、、。
龍は空高く舞い上がった。しっかり摑まっていないと飛ばされてしまいそうな状態である。それにしても素晴らしい光景であった。まるで飛行機に乗ってどこか外国の大自然の上を飛んでいるかのようだ。空には夕焼けの赤が広がる。鳥の群れを見下ろしながら、雲の合間を飛んで行く。やがて日は落ち、暗い夜空をさらに飛んでいく。空には無数の星がまたたいていた。なんて美しいんだろう。まるでとてつもなく巨大なプラネタリウムを見ているようだった。
どのくらい飛んだだろうか、地平線の彼方から徐々に明るくなってきた。夜通し飛んでいたことを、譲二はあらためて実感した。しかし、不思議と疲労は感じなかった。行く手には大きな山々が連なっている。どこまで行くのだろうか?流石に少し不安を感じはじめたその瞬間、心の中で声がした。
(あの山の向こうにそれはある。)
山に近づくとまた暗くなってきた。湿気を帯びた空気に包まれる。やがて雨が降ってきた。雷鳴が轟き、強風が吹き荒れる。雨はいっそう激しくなってきた。そんな中をしばらく行くと、とたんに晴れ渡った空間が開けた。まるでさっきの嵐が嘘のように穏やかな光景である。低い木々に覆われた高原が続く中を、龍は上下左右に体をくねらせながら進んでいく。すると遥か彼方に高い木々の茂る一帯があった。
(あそこさ!)
心の中に響く声は少し高揚しているように聞こえた。そうか、あそこが "森" なのか。あそこがずっと夢に見ていた "楽園" なのだろうか?譲二もまたいつしか気分が高ぶっていた。
龍は大きく旋回しながら森の中央付近の大きな広場に降りた。まわりには針葉樹の森が広がっている。ついに来たのだな、、、。今の譲二には目的がわからない不安より、安堵感の方が勝っていた。また心の中で声が響いた。
(この先にかつて我々の宮殿があった。そして平和で幸福な世界があったのだ。)
平和で幸福な世界か、、、。自分にとって平和で幸福な世界はあったのだろうか?確かにいわゆる戦争はなかった。しかし生きていくための戦争があり、幸福であったと言える状況ではなかったかもな。
(これからどうするんだ)
譲二は心の中で問うた。
(事情があってこの先の世界には行けない、今はな。)
事情とは何なのか?もうわからないことだらけであるが、今更驚かない。
(どういう事情なのか、そろそろ話してくれないか。俺は選ばれし者なんだろ?)
(そうさ、でもその前に会ってもらわなければならないお方がいるのだ、急ごう!)
龍は再び舞い上がった。自分が会わなければならない人物とは誰なのか。まぁ会えばわかるのだろうな。ここまでくればもう半ば開き直るしかなかった。
しばらく飛んで行くと海が見えた。あるいは湖かもしれないがわからない。龍はその広い水面の上を飛んでいく。はじめは晴れていた空がだんだん曇ってきた。冷たい雲の中をさらに飛んで行く。そして、その雲がパッと途切れた瞬間、眼の前に島が見えた。小さいが、何やら不気味な島である。島に近づくにつれて、だんだんと様子がわかってきた。島の周囲には壁があった。壁は高く頑丈そうで、まるで脱獄不可能な刑務所のように見える。島の中央付近に粗末な小屋があった。龍はゆっくりと小屋の前に舞い降りた。すでにとっぷりと日が暮れていた。
小屋の中から一人の女性が現れた。
「あなたを待っていました。」
そう言って、譲二を小屋の中へと招き入れた。粗末な小屋であるが、中は意外と小綺麗に整頓されていた。部屋の中にはテーブルと椅子が2つ。譲二はそこに座るように言われた。その女性は紅茶を振舞ってくれた。それは今まで経験したことがない程、良い香がした。キャンドルに照らされた女性をあらためて見る。彼女は美しかった。みすぼらしい身なりではあったが、どこか気品があり、得も言われぬオーラのようなものが感じられた。
「あ、あの自分は、、、」
別に緊張していたつもりもないが、譲二はその場の空気にいたたまれず、先に口を開いた。しかし、どこからどう説明したらいいのかわからなくなり、そのまま口籠もってしまった。
「良いのです。あなたのことはわかっています。それよりあなたがなぜここに呼ばれたか、知りたくありませんか?」
譲二はすぐに頷いていた。そう、それが知りたかったのだ。龍はろくに説明もせず、無理矢理ここに連れてきたのだから。彼女はゆっくりと語り始めた。
「私はアーシャ、針葉樹の国の王ホルデンの娘です。私の故郷 “針葉樹の国” はそれはそれは美しく平和な国でした。私の父は、それまで100年も続いた戦乱の世を終わらせ、針葉樹の国に平和をもたらしたのです。それから約半世紀近く国は繁栄しました。父には信頼していた家来がいました。ゴディアン二世です。彼は父を尊敬していました。そんな二人は堅い絆で結ばれており、常に二人で美しい針葉樹の国の平和を維持してきたのです。ところが数年前、ゴディアン二世が急逝してしまったのです。とても悲しい出来事でした。そして、その跡を継いだ息子シュモールは、あろうことか国王の座を狙い、私の父を殺したのです。そればかりでなく、シュモールは私のいいなづけを追放し、私を妃にしようとしました。もちろん私は拒絶しました。すると結婚を承諾するまで私を監禁すると言いました。そんなわけで、今は囚われの身となり、この牢獄のような島 “ Island of pain” に幽閉されているのです。」
なんだか、どこか遠い外国のおとぎ話でも聞かされているかのようだった。全てが作り話のようで、ただ唖然とするばかりであった。
「夢で森を見たでしょう。あなたはどう思いました?」
彼女はいきなり質問してきた。どう思ったも何も、不思議なくらい "あの森" に取り憑かれている自分がいる。そう、だからここまで来たと言っても過言ではない。
「いや、その、、、美しい森だなと、、、。あんな森は、その、、、見たことがないし、、、癒されるというか、その、、、」
しどろもどろになる自分がどうにも滑稽だった。
「そう思ってくれているなら大丈夫よ、きっと。」
彼女はそう言って微笑んだ。初めて彼女の笑顔を見た。出会って間もないが、なんだか初対面でないような、そんな気がしたのだ。どうしてだろうか。そう言えば、どことなく初恋の女性に似ているからか。いずれにしろ美しい彼女にすっかり見とれている自分に気付き、思わず赤面した。
「いいなづけはどうしているのですか?」
苦し紛れに出たのはそんな言葉だった。自分はいったい何を聞いているのだろう。
「それは、あなたをここまで連れてきた龍よ。あの龍が私のいいなづけなのです。」
なんと、あの龍がこの美しい女性(ひと)のいいなづけだなんて。あまりの驚きにまたも言葉が出なかった。
「シュモールによって邪悪な魔法をかけられ、龍に姿を変えられ、両目をえぐられてしまったの。」
魔法?なんだそれは?!またしても訳がわからない。彼女の話を聞けば聞くほど混乱するのであった。
「今夜はこれくらいにしましょう、続きはまた明日、、、。」
気が動転しているのがわかったのか、彼女はそう言って寝室へ案内してくれた。そこには高級そうなベッドが用意されていた。こんな良い環境で眠れるなんて、本当に久しぶりだ。そして、疲れていたのか、譲二はあっという間に眠りに落ちていった。
目が覚めた。カーテン越しに朝日が差し込んでいる。少し寒いが久々に穏やかな朝である。こんな気分はいつ以来だろうか。ふと部屋の中を見渡すと、思ったより広かった。壁には写真が飾ってある。そこには立派な髭をたくわえた白髪の老人の姿が写っていた。どこかで見たことのある人物だ。ん?待てよ、、、、そうか!譲二は気が付いた。その写真の男こそ、死にきれなかった自分に石をくれたあの老人その人であった。
「それは針葉樹の国王ホルデン、私の父よ。」
声の主はアーシャであった。昨夜薄明かりの中で見た時より、朝の日射しの中で見る彼女の方が数倍まぶしかった。彼女に惚れてしまったのかもしれない。
「こ、この人に助けられ、石をもらったんです。あなたのお父上だったんですね。」
譲二はどきまぎしながら言った。
「そうね、でも正確に言えば、父の亡霊にあなたは救われたのです。龍の目を "予知の石" に変えたのも、父の亡霊がかけた魔法なのよ。」
そうか!再び譲二は気が付いた。自分はあの時、老人の言葉を信じ、石を磨き、ここに導かれた。だから「選ばれし者」なんだ、と。
「いったい、おれは何をすればいいんでしょうか?」
譲二は思わず口走っていた。
「あなたのために、おれは何をすればいいんですか?」
アーシャはまっすぐに譲二を見つめた。
「針葉樹の国の再興を、、、そして針葉樹の森を取り戻したいの。父の遺言よ。」
こうなったら運命を委ねよう。譲二はいつしか決心していた、、、。
昼になっても気温はあまり上がらなかった。朝、アーシャが暖炉に火を入れてくれたお陰でなんとか過ごせているようなものだった。午前中、譲二は茫然としたまま過ごした。故郷の海に身を投じてから、今までのことをぼんやりと思い出していた。あれから3ヶ月半近く、実にいろいろな事があった。それは今まで過ごした時間の中で、いや、人生の中でもっとも変化にとんだ毎日だったように思う。そして、またこれから自分の身に何が起こるのか怖くて不安である一方、大きな期待もあり、実に複雑な思いであった。そこにアーシャが戻ってきた。
「おかえりなさい。外で何を?」
「畑仕事よ。シュモールの手下が来て、毎週パンをおいていくけど、私は食べたくないの。だから自分で野菜を作っているのよ。」
こんな寂しい島で一人、自給自足の生活を送っているなんて。譲二はそんなアーシャをとても不憫に思った。
「でもヘキガンが魚や果物を取ってきてくれるわ。」
ヘキガンとはいいなづけの龍のことであった。二人は近く結婚する予定だったらしい。譲二はちょっとイライラしてしまった。どうしたんだ、自分はヤキモチを焼いているのか。そう思って苦笑した。
「シュモールってのはどんな男なんですか?」
譲二はあえて話題を変えることにした。
「彼は、、、。」
アーシャは目を潤ませていた。
「すっ、すみません、そうですよね。お父上の仇ですもんね。さぞ憎いでしょう。」
「違うの、、、、昔は良き友人だったわ。私とヘキガンとシュモールは幼なじみなの。小さい頃はよく一緒に遊んだわ。」
アーシャは遠い目をした。そして、ヘキガンとシュモールの微妙な関係について語ってくれた。ヘキガンとシュモールは実はゴディアン二世の息子達、つまり兄弟なのだと言う。兄のヘキガンがアーシャと結婚して、ホルデン家の跡継ぎになる予定だった。しかし、シュモールがそれを妬んだのだとか。
「本当は優しい人なのよ。でも大人になると変わったわ。彼の父ゴディアン二世が偉大すぎたのよ。そして、その資質を受け継いだ兄ヘキガンといつも比較されて、だんだんと卑屈になってしまったの。何をやっても父や兄を超えられないってね、、、。」
そうか、まぁよくある話だな。譲二は思った。思えば自分も若い頃、有能な商社マンだった父とよく比較されたもんだ。やってることが違ったから良かったようなものだが、父はとても超えられないと思っていた。ましてこの国ではいろんなことを世襲するんだったら、シュモールって奴もきっと辛かったんだろうな。まして、自分の兄貴がこの美人さんと結婚するなんて聞いたら、愚れてしまうのも当然かもしれない。譲二はちょっとシュモールに同情していた。さながら「堕天使」ってとこだな。
「とは言っても、奴がお父上を殺した大罪人なら、滅ぼさないと平和は来ないってことですよね?」
正直、殺生は性に合わないのはわかっているが、この女性のためにひと肌脱ぐと決めたんだ。戦争する覚悟はある。
「でも軍隊にいたわけでもないですから、自分は当然戦う訓練なんて受けていませんし、まして武器なんてあるんですか?」
「武器なんて持っていないわ。針葉樹の国は平和を重んじる国よ。でも、シュモールの家系は代々、針葉樹の国を護衛する軍隊の家柄なのよ。普通に戦ったら到底勝ち目はないわ。」
「じゃぁどうするんですか?」
「彼を改心させるのよ。素直で優しかったシュモールに戻して欲しいの。」
「そんなのどうやって?」
「魔法を使うのよ。針葉樹の国の王家に代々伝わる特別な魔法を。それで彼の邪念を取り除くのよ。」
アーシャが言うには、シュモールも魔法を使うが、私利私欲に走る者には十分に使いこなせないのだと言う。龍に姿を変えられたヘキガンのもう一つの目を取り戻すことによって、その魔法が使えるようになるのだと言う。
「よし、それじゃ、そのもう片方の目を手に入れれば良いわけだ。それはどこにあるんですか?」
「王家の宮殿の中よ。」
「で、どうやって?」
「私に考えがあるわ。でも、実行するのは春になってからよ。この国の冬は厳しいの。寒さでヘキガンのウロコが凍ると、魔法が効かないのよ。まして、あなたも凍え死んでしまうわ。」
そして静かに春を待つことになった。今はただ来るべき戦いに備えて鋭気を養う時であった。"選ばれし者" とは言え、針葉樹の国を、そして「森」を取り戻すなんて、そんな大それたことを本当に自分が出来るのか?そして、その後はどうなるのだろうか?でもそんなことはまだ考えたくなかった。少なくとも春になるまではアーシャと一緒に暮らせる、そんなささやかな幸せこそ、今は心の支えなのかもしれない、、、とそう思うばかりだった。
Story
長い冬が終わり春が来た。それはシュモールとの戦いの日が近づいていることを意味していた。何より目標はシュモールに奪われたヘキガンの片目を取り戻すことにある。アーシャ曰く、その片目の石を取り返すことができれば王家の魔法によってシュモールを封じ込められる。アーシャの作戦はこうだった。
森を包んでいる雪と氷が溶ける頃、シュモールは必ず野外で軍事演習をする。宮殿が手薄になるその日が狙い目とのことであった。まず、Island of Pain (IOP)を抜け出すために、周囲を守っているシュモールの手下の雑兵たちをヘキガンが魔法で眠らせる。そして宮殿に着いたら、在番兵にも魔法をかけて眠らせ、その隙に侵入して石を盗み出すというものである。しかし片目のヘキガンにとって、魔法は同時に複数はかけられない。宮殿の在番兵に魔法をかけると、IOPの兵たちは眠りから覚め、我々が抜け出したことを知られてしまうのだ。つまり追手が宮殿に駆けつけるのは時間の問題である。猶予は15分程度しかない。ただし、そんなことをシュモールが想定していないわけもなく、宮殿内にどんな罠が仕掛けられているかもわからない。しかし、もはやそれ以外に手立てはないとのことであった。
ある夜、アーシャがやって来た。ヘキガンの透視によれば、軍事演習は明朝からとのことであった。いよいよか。譲二はこの日のためにヘキガンから剣術を、そしてアーシャからテレパシーを駆使した読心術の至難を受けていた。しかし、譲二は不安でならなかった。未だに自分がまともに戦えるとは到底思えなかったからだ。でもやるしかないんだ。そう自分に言い聞かせるのだった。
翌朝、ヘキガンが来た。すでにIOPの兵たちは眠らされていた。譲二とアーシャはヘキガンこと片目の龍に跨り、宮殿へと向かった。宮殿は案の定わずかな在番兵を残して留守だった。ヘキガンはあっと言う間に在番たちに魔法をかけて眠らせた。体の大きなヘキガンは外でシュモールたちが戻って来るのを食い止める役に回ることになった。
「さぁ急ぎましょう。」
譲二とアーシャは宮殿に入り、宝物殿を目指した。宮殿の中はまるで迷路のようで、譲二はどこをどう通って来たのかわからなくなってしまった。しばらく行くと少し広くなった場所に出た。二人はそこにあった大きな柱に身を隠した。そしてアーシャが小声で指をさす。
「あそこが宝物殿よ。」
そこにはいかにも厳重そうな鉄の扉が備わった部屋があり、前に守備兵が二人いた。
「どうしますか?戦うんですよね?」
譲二はムダと分かっていながら聞いた。
「いいえ、その必要はないかも。」
そう言うと、アーシャは読心の念を送り始めた。
「右の男はシュモールのやり方に疑問を持っているし、左の男は早く家に帰りたがってる。」
アーシャは見事に守備兵の心を見通したのだ。
「ここで待ってて。」
そう言ってアーシャは守備兵の前に歩み出た。そして首元のペンダントを大きくかざした。その瞬間、二人の守備兵は何かに取り憑かれたように鉄の扉を開けたのだ。何がどうなっているんだ!唖然としている譲二に、アーシャは言った。
「シュモールに対して忠義心のない者には、このペンダントの魔法がかけられるのよ。これは父ホルデン王が亡くなる間際に私にくれたものなの。とにかく急ぎましょう。」
宝物殿の中央に石が置かれていた。アーシャはまたペンダントをかざした。
「特に仕掛けはないみたいね。」
二人を石を手にして宝物殿を後にした。
「おかしいわ、あまりにも簡単すぎる、、、」
確かにあまりにも呆気なく石を手に入れられてしまった。大事な物なのにシュモールがあっさり手放すわけはない。宮殿の入口まで戻ると、ただならぬ状況であることが分かった。宮殿の周りをシュモールの軍勢が取り囲んでいたのだ。
「やっぱりそんな簡単じゃないわ。」
ヘキガンが取り囲む兵隊たちを睨みつけている。その中心には片目の黒い龍にまたがったシュモールがいた。
「ヘキガンよ!お前の陰謀もこれまでさ。」
シュモールが叫んだ。アーシャは素早く譲二に八つ手の葉を渡して言った。
「早く、その石を磨いて!」
譲二はすぐにその意味がわかった。石をクリスタルのように輝くまで磨いて、それをヘキガンの片目に嵌め込めば勝ちだ。譲二は必死で磨いた。しかしいくら磨いても石はきれいになる様子はない。
「はっはっは!それは偽物よ。」
シュモールのあざけ笑う声が聞こえた。
「本物はここだ!」
見るとシュモールがまたがっている黒龍の片目が光り輝いていた。次の瞬間、シュモールの手勢がアーシャを拉致した。
「離して!助けて!」
譲二はとっさのことでどうすることもできなかった。シュモールが叫んだ。
「ヘキガンよ、1 対 1 で勝負だ!」
シュモールは黒龍に乗って空高く舞い上がった。ビビる譲二もヘキガンに無理やり頭に乗せられて空へ上がった。譲二は今にも逃げ出したい気分だが、ヘキガンの背中に乗せられてしまってはどうしようもない。ヘキガンの声が心の中に響く。
(シュモールを撃ち果たせ!教えた通りにやれば大丈夫だ。)
譲二は仕方なく剣を抜いた。そして黒龍に乗ったシュモールとヘキガンに乗った譲二の空中対決の火蓋が切って落とされた。
(譲二よ、心を落ち着つかせ精神を集中させるのだ。)
ヘキガンの心の声が響いた。いくらヘキガンに剣術の手ほどきを受けたとはいえ、ほんの数ヶ月やっただけのズブの素人だ。職業軍人のシュモールになんて勝てっこない。シュモールが剣を振りかざして突進してきた。譲二はかろうじて剣を交わす。そしてまたひるがえって切りかかってくる。譲二はまたかろうじて交わす。それの繰り返しで埒が明かない。武力では到底敵いそうにない。話し合える可能性はあるだろうか?譲二は一心不乱にシュモールに思念を送った。
譲二(シュモールよ、ヘキガンもアーシャも、そして自分もお前と戦う気などない、もうやめにしないか。)
シュモール(譲二、お前は騙されいるのだ、目を覚ませ!)
譲二(確かに俺は騙されてここに連れてこられたようなものだ、しかし、兄弟で争う必要はないだろう。)
シュモール(わかっていないようだな、、、兄さん。)
譲二(兄さん?どういうことだ?ヘキガンへ語りかけているのか?)
シュモール(いや違う、これは全てヘキガンの陰謀なのだ、そしてお前は俺の実の兄なのだ!)
ただでさえ普通じゃない状況で、譲二はさらに訳がわからなくなった。
譲二(兄さんはヘキガンだろう、降伏すればヘキガンはお前の命まで取らないはずさ、それはアーシャの願いでもある。)
シュモール(ヘキガンは俺を殺し、お前を森の生贄にして針葉樹の森の王国を乗っ取ろうとしているんだぞ!)
譲二は困惑した。アーシャはそうは言っていなかった。シュモールの一方的な反逆と認識しているし、それをここで違うと言われても俄に信じることはできない。
ヘキガン(シュモールの言っていることはデタラメだ、信じてはならないぞ譲二!)
譲二は我に返った。そうだ、シュモールを倒さなければ平和は訪れない。やるしかない!そう思った瞬間ヘキガンの目が光った、同時にアーシャのペンダントも光始めた。シュモールの兵隊たちはその場で凍りついたように動けないでいる。
そして譲二をのせたヘキガンの体が大きな火の玉のようになった。まるで太陽が間近にあるようなすごい光だ。シュモールは眩しさのあまり顔を覆った。
ヘキガン(今だ!、殺れ!)
ヘキガンの火の玉がシュモールに向かって突進した。譲二はシュモールの胸を突いた。しかし譲二の剣は急所は外れ、シュモールの肩口を貫いた。シュモールの体は黒龍から外れ地面に落ちた。
ヘキガン(黒龍を追うぞ!)
ヘキガンは黒龍に突進し、黒龍の体に己の体を巻きつけて押さえ込んだ。
ヘキガン(譲二よ、俺の目を取り戻せ!)
譲二は黒龍の目をえぐった。次の瞬間、黒龍はまるで砂のように粉々に消え去ってしまった。そして、譲二はヘキガンの片目にその目を嵌め込んだ。ヘキガンの体は七色の美しい光を放ち出し、見る見るうちに一人の精悍な若者の姿へと変わった。両眼を得たことで、邪悪な魔法は解かれたのだった。周囲の兵士たちは皆ヘキガンの元に跪いた。
「シュモールを捕らえよ!」
ヘキガンの一声で、シュモールは兵士たちに抑えこまれ、ヘキガンの前に引出された。
「牢に打ち込んでおけ!」
ヘキガンの命令でシュモールは宮殿の牢へと連れて行かれた。そして、ヘキガンは譲二を睨みつけた。
(お前、わざと外したな。)
その心の声は怒りに満ちていた。しかし、譲二にはシュモールを殺すことは出来なかった。アーシャもそれを望んではいないはず、ととっさに思ったからであった。
(ヘキガンお願いだ、シュモールの命だけは助けてやって欲しい、アーシャは魔法で封じ込められると言っていた、なにも殺す必要なないだろう、だって君たちは兄弟じゃないか!)
譲二は懸命に嘆願した。しかし、それに対してヘキガンは何も言わなかった。
ヘキガン(譲二よ、お前のおかげで王国に平和が戻ったのだ、ありがとう。)
アーシャが駆け寄ってくる。
「ヘキガン本当に良かった、そして、譲二ありがとう、あなたのおかげよ、本当にありがとう。」
譲二は自分はさほど大したことはしていないと思ったが、とにかく事が解決し、何よりアーシャの笑顔が戻った事が嬉しかった。
翌日、針葉樹の宮殿で盛大なパレードが行われた。それは針葉樹の王国が復活を祝うと言うだけでなく、ヘキガンとアーシャと言う新たな王と王妃の誕生のお祝いでもあった。そして、譲二は王国を救った救世主として針葉樹の森の民たちから喝采を浴びた。それは譲二にとってかつて経験したことのない人生における至上の瞬間であった。
譲二はシュモールの事が気がかりだった。彼の処遇のことはもちろんだが、戦いの最中にシュモールが言っていた事が引っかかっていた。もう一度直接話がしたい。譲二の足は自然とシュモールが監禁されている牢へ向かっていた。牢は宮殿の背後の崖にあった。牢の中には憔悴しきったシュモールがいた。
「シュモール、俺もアーシャもお前を救いたいんだ。」
譲二は声をかけた。シュモールは悲しげな目でこちらを見た。
「もう終わりだよ、針葉樹の国はもう変えられない、、、」
「違うよシュモール、王国はこれからさ、みんなで仲良く王国を守ってゆけばいいじゃないか」
「お前は何もわかっていないんだ!」
シュモールは強い口調で言った。確かにわかっているかと言われば、何もわかっていないのかもしれない。しかし、今の状況は少なくともわかる。譲二は自分の中にある気持ちを正直に口にした。
「俺はなぜかお前を他人とは思えないんだ。お前はなぜ王国を奪おうとしたんだ?」
「奪おうとしたんじゃない、奪おうとしたのはヘキガンの方さ。」
シュモールはゆっくりと語り出した。彼の話はこうであった。
亡くなった王ホルデンの子供は一人娘のアーシャとされているが、正しくはシュモールとアーシャであった。つまり二人は兄妹の関係である。ヘキガンは王の片腕とされたゴディアン二世の子供であることは事実であるが、シュモールと血は繋がっていない。ホルデン王は当初シュモールを後継者としたかったが、才能あふれるヘキガンを養子にして次期王にすると決めた。それはシュモールが実の妹であるアーシャに恋愛感情を抱いてしまったからでもあった。近親婚の認められない森の掟により、それは叶わなかったのだ。シュモールとアーシャを一つ屋根の下に置くことが難しいと考えたホルデンは、シュモールをヘキガンの代わりにゴディアン二世の養子としたのだった。さらに驚くべきは、譲二がホルデンの第1子であること、すなわち譲二はシュモールやアーシャと血縁だと言うのだ。譲二は死産であったが、それを傷んだ王は、森の掟により王家の魔法をかけた。それは針葉樹の森を離れて "世俗" という並行世界に出ることで "生" を得られると言うものだった。譲二が選ばし者として森の救世主になれるのも、実は王家の血筋引く者だからなのであると。そんな中、ヘキガンは後継者の座を手に入れたものの、シュモールの存在が邪魔になり始めた。ゆくゆくは自分を脅かす存在になることを危惧していた。そして実父であるゴディアン二世にシュモールの排除の相談を持ちかけるが、忠誠心に厚いゴディアン二世はヘキガンを止めようとする。シュモールにはゆくゆくは守護神になってもらわなければならなかったからだ。ヘキガンは実父のゴディアン二世と言い争ううちに揉み合いになり、うっかり父を殺してしまったのだ。そしてこともあろうにそれをシュモールに目撃されてしまった。それをきっかけにヘキガンは豹変していったのだそうだ。ヘキガンはシュモールを排除するため、彼に魔法をかけ、全ての悪は王ホルデンであると思い込ませ、王を殺させたのだ。つまりシュモールはヘキガンに騙されて父であるホルデン王を殺めたと言うことだった。しかし、王の死によって魔法がとけ、シュモールは自分の犯した罪に気付いた。しかし、時すでに遅く、シュモールは実父である王を殺し、おまけにゴディアン二世も殺したとデマを流され、反逆者の汚名を着せらて死罪が決まっていたそうだ。アーシャは王ホルデンやゴディアン二世の死の真相もヘキガンの陰謀も未だに知らない。シュモールはアーシャを傷つけたくなかったから、彼女には何も話していないのだそうだ。そこにある夜王ホルデンの亡霊が現れたのだと言う。実はホルデンは死の直前、ヘキガンが父のゴディアン二世を殺したこと、シュモールに罪を擦りつけたことなど、ヘキガンの犯したを一連の事実を知ったのだそうだ。王ホルデンは亡霊となってもヘキガンの暴走を止め、シュモールの立場を取り戻すために、譲二をこの世界に導いた。そして譲二を森の守護神に据えることで針葉樹の王国にバランスを取り戻そうとしたのだと言う。そしてシュモールも譲二が本当の兄であることをその時初めて聞かされたそうだ。そしてシュモールはここで巻き返しを図る。ホルデンから王家の魔法を伝授されたシュモールは、それを使ってヘキガンを龍の姿に変え、両眼をえぐった。片方の目はホルデンが、もう片方の目はシュモールが所持してヘキガンを封印した。そしてアーシャには害が及ばぬようにIOPに封じ込めた。アーシャは監禁されたと思っているが、実はアーシャの身を守るためだったのだ。
話を聞き終えた譲二は愕然とせざるを得なかった。諸悪の権化と思っていたシュモールは実は王ホルデンが頼みにした "味方" であり、しかも実の弟だと言う。そして今まで信じて共に戦ってきたヘキガンこそが陰謀の首謀者だったとは。
「信じるか信じないかは兄さん次第だ、ただこのことはアーシャには内緒にしておいて欲しい。」
シュモールの話に頭が混乱してしまった譲二はすぐには言葉が出なかった。
「少し考えさせてくれ。」
譲二は牢を後にした。
翌日、譲二は朝からずっと考えていた。もしシュモールの話が真実であれば、自分はヘキガンに利用されただけなのか。そして、これから一体どうなるんだ?自分は何をすればいいんだ?やはりシュモールを救い出さなければならない。アーシャに真実を告げ、シュモールを救い出して共にヘキガンを倒して王国を取り戻すのか?いや待て。シュモールと自分がレジスタンスになったところで、すでに王家の魔法を手に入れたヘキガンと戦って勝てる見込みはないだろう。ましてアーシャを精神的にも肉体的にも苦しめることにもなる。それに、仮にヘキガンが陰謀の首謀者であったとしても、このままヘキガンとアーシャが王家を継承し、自分が森の守護神とやらになれば、それで平和は訪れるではないか。それはホルデンが当初描いていた理想図でもある。そうか、何かやるせない気持ちは残るが、針葉樹の王国にとってはこのままで良いのかもしれない。それが譲二の結論だった。あとはただ、シュモールの助命嘆願をヘキガンに申し出ることだけであった。
夕方、譲二はアーシャの部屋へ行った。そして、ヘキガンが真の悪人であることや自分が本当の兄であることは隠したまま、今のシュモールが平常心を取り戻し深く反省していると伝えた。シュモールの処遇については、アーシャからも当然の如く賛同が得られた。
「じゃ明日、二人でヘキガンにこの件を願い出よう。」
「きっとヘキガンだって許してくれるはずよ。」
譲二の提案が嬉しかったのか、アーシャは目に涙を浮かべていた。
翌朝、譲二とアーシャはヘキガンの前で、シュモールの助命を願い出た。ヘキガンはしばらく虚空を見つめていたが、ようやく口を開いた。
「よかろう、シュモールの命までは取らないでやろう。」
張り詰めた空気が一気に緩んだ瞬間だった。譲二とアーシャは安堵で思わず抱き合った。
「ただし、条件がある!」
ヘキガンの大きな声に譲二は我に返り、その状況に少し恥ずかしくなった。
「許すとは言え、王国にとっての反逆者であることは間違いないし、他の者たちに示しがつかない。よって命は助けるが、IOPに蟄居・幽閉するものとする。」
譲二とアーシャにとって、そこは認めるしかなかった。ヘキガンの言うことも最もだからである。いたしかないのだ。でも、いずれ時が経てばきっと許される日が来るだろう。いや、必ずそうして見せる。心の中で譲二はそう誓ったのだった。
「それともう1つ、譲二、お前に頼みがある。」
ヘキガンがあらたまって切り出す。
「いや頼みと言うより、そうなってもらわなければならないのだ!」
ヘキガンが言うには、森の守護神になって欲しいと言うことだった。それは王ホルデンの願いでもあると。
「守護神なんて俺にできるのか?一体何をすればいいんだ?」
譲二にとっては、もはや選択肢はないことはわかっていたが、守護神なんて大それた者になれる自信など到底なかった。
「何も心配することはない。森に身を委ね、心から森を慈しむことが出来るなら大丈夫だ。」
ヘキガンの言葉がまるで魔法のように、譲二の心から不安はなくなって行った。なんだかんだ言って、信じてここまできたのだ。今更後には引けないし、拒むつもりもなかった。
「そうと決まったら、今夜は新しい守護神の誕生を祝ってパーティーよ!」
アーシャが嬉しそうに言った。微笑むアーシャはとても美しかった。譲二もいつしか微笑んでいた。
その夜、森の広場に大勢の人が集まった。王宮の人々、兵士たち、針葉樹の森の民たち。こんなに多くの人々がこの森に住んでいたんだ。あらためて譲二は驚いた。アーシャもヘキガンもいつもより着飾っていた。本当に素晴らしいカップルだ。そして譲二もその二人の脇に座っている。着慣れない立派な衣装を着せられて。嬉しい反面、そんな自分がなんだか滑稽に思えてきた。
「どうしたの?何かおかしい?」
アーシャが近寄って来て言った。
「いや、俺に似つかわしくない格好だって思って。」
「そんなことないわ。それより、いよいよ明日、あなたは森の守護神になる洗礼を受けるのよ!」
「あぁ、それが俺の運命なら、そしてこの国の平和が続くなら喜んで。」
譲二は本心からそう思った。もちろんアーシャの幸せも心から望んでいた。それにしても、アーシャは自分やシュモールが実の兄だと言うことをまだ知らないはずだ。もう隠す必要はないのではないか。
「アーシャ、実はね、、、」
譲二がそれを切り出そうとしたその時、ヘキガンが声をかけて来た。
「譲二、誉高き友よ!今夜はお前のためのお祝いだ、大いに楽しんでくれ!」
譲二はタイミングを外され苦笑した。ともあれ、この先まだまだ機会はあるだろう。広場の人々は皆、軽快な音楽に合わせて踊っている。
「私たちも一緒に踊りましょう!」
アーシャの誘いを断る理由はなかった。その日は朝まで大いに盛り上がった。思えばこんなにハメを外して大騒ぎしたのは久しぶりだった。本当に真の平和が訪れた、そんな喜びを心の底から感じる忘れられない一夜となった。
宮殿の一室で譲二は目を覚ました。窓から差し込む日の光はだいぶ明るく暖かい。今何時だろう。だいぶ寝坊してしまったようだ。少し頭痛がする。昨夜はだいぶ飲んだからな。しかも年甲斐もなく踊って騒いだせいか、足腰が痛む。全くこんな男がこれから守護神になるって言うんだから笑ってしまう。譲二は重い体を起こし、窓の外へ目をやった。そこからは遠くシュモールが幽閉されているIOPを望める。パーティの前に牢で話してから会っていないし、そう言えば昨夜はシュモールは来ていなかった。まぁ蟄居させられているのだから当然か。シュモールとは是非ゆっくりと語り合いたい、とそう思った時、譲二は何やら胸騒ぎを感じた。シュモール、弟は無事なのか?なぜかそんな思いが脳裏を過ぎったのだ。次の瞬間、ノックの音がした。扉を開けるとそこにはアーシャが立っていた。
「どうしたんだ?」
譲二の顔を見るやいなや、アーシャはその場に泣き崩れた。
とっさに譲二は彼女を抱きしめた。
「シュモールが、、、シュモールが、、、」
アーシャは正気を失い、言葉にならない。しかし譲二はすぐにわかった。シュモールの身に何かが起こったのだと。
譲二はすぐさまIOPへ向かった。
IOPは着くと、いささか物々しい雰囲気に包まれていた。木屋の前には兵士達が集まっていた。
「何があったんだ? シュモールは?」
譲二は兵の一人に声をかけた。
「シュモール様が亡くなられました、、、」
胸騒ぎは的中した。譲二は急いで木屋の中に入ると、そこにはヘキガンがいた。そしてヘキガンの前にはシュモールが横たわっていた。
「どう言うことだ!何があった?」
譲二は思わず声を荒げた。
「シュモールは死んだ。自ら毒を飲んだようだ。」
ヘキガンが静かに言った。譲二は愕然としてその場に倒れ込んだ。
「これがあった、お前宛だ。」
そう言ってヘキガンは譲二に紙切れをくれた。そこには次のように書かれていた。
”最愛なる兄さんへ 命を救ってもらったことは心から感謝している。しかし、やはり俺はこのままではいられない。幽閉がいつとかれるかもわからないし、自由になってもヘキガンに疎んじられ殺されるかもしれない。あるいは、自分の中に再び反逆心が目覚め、王国をかき乱さないとも限らないし、そうならない自信もない。いずれにしろ、ヘキガンに殺されることも、反逆者となって殺されることも俺は望まない。だから自ら死をもって終わらせることにする。兄さん、そしてアーシャ、本当にすまない。そして最後に、残された者達のため、針葉樹の王国の繁栄のため、兄さんには森の守護神となってほしい。どうかよろしく頼みたい。 シュモール”
その日の夕方、ヘキガンとアーシャと数名の祈祷師と思われる人々と共に、譲二は森へ向かった。正確に言えば、森のどこかだと言うこと以外、何も聞かされていなかった。ただ、森の中の最も神聖な場所であると言うことだけである。針葉樹の葉に覆われた籠に入れられているため、周囲はよく見えない。不思議なことに非常に眠い。昨夜飲んで騒いだせいなのか、いろいろな緊張が溶けたからなのか、それはよくわからない。しかし、とにかく強い睡魔に襲われ、譲二はいつしか眠ってしまった。
「準備が出来たわ、起きて譲二!」
アーシャの声に譲二は目を覚ました。すでに夜明け近くになっているようである。見ると、自身の下半身は針葉樹の大きな大木の下に完全に埋められ、上半身だけ地表に出ている状態であった。そして周りを祈祷師たちが取り囲んでいた。上半身は裸であったが不思議に寒さは感じない。やがてあたりには霧が立ち込め始めた。いや、霧のように見えるが霧ではない。金色に輝く花粉があたり一面に漂っていた。いよいよ儀式が始まるんだな、と譲二は思ったが、しかしこの後に及んで急に不安になってきた。ただならぬ状況におかれ、何をされるかわからない漠然とした恐怖感である。本当に自分は守護神になんてなれるのか?なって大丈夫なのか?と。
(譲二よ!何も恐れる必要はないのだ、お前なら出来る、大丈夫だ!)
ヘキガンの思念が心の中に響いてきた。
(思いだすのよ、あなたが最初に感じた "あの感覚" を。針葉樹の森に癒され、ずっとそこに居続けたいと思った "あの感覚" よ。)
続いてアーシャの思念も響いた。
(わかったよ、あの感覚は今も忘れたことはない。あの感覚に包まれたくて、俺はここまできたようなものだから。)
譲二も思念を返した。次の瞬間、ヘキガンが何やら呪文のような言葉を叫ぶと、祈祷師たちが祝詞らしきものを唱え始めた。いや祝詞というよりは、歌に近い。どこか懐かしいような美しいメロディだ。そのメロディを聴きながら譲二は "あの感覚" に包まれていた。やがて、針葉樹の木の幹から生えた根が伸び、それが譲二の体に巻きついてゆく。さらに、その根から枝が生え針の葉に覆われる。これで森に取り込まれ、このまま森の一部になるんだと譲二は思った。森の一部になることが守護神になることなんだ、そんなことを考えながら、譲二はだんだんと意識が遠ざかっていくのを感じた。
次に気がつくと、すでに夕暮れになっていた。今までずっと眠っていたのだろうか?そこにはヘキガンとアーシャが祈りを捧げている。いや待て、自分は明らかに祈る二人を見下ろす位置にいる。俺は一体どこにいるのだ?よく見ると二人は大きな針葉樹の大木の下の岩のようなものに祈りを捧げているのだ。その岩のようなものは、なんと "自分" であった。大木の根本近くで、大部分は針の葉に覆われているが、岩の一部分だけは露出し、そこにあるのは明らかに自分の顔である。では今見ている "自分" は何なのか?そうか、もしかしたら魂なのかもしれない。とっさに譲二はそう理解した。肉体は岩のようになっても、魂として精神はここにあり、周囲を俯瞰している。やがて、森が美しい夕焼けの深紅に包まれ始めた時、ヘキガンとアーシャは言葉を発した。
「ここに新たなる守護神が生まれた、永遠に平和を!」
二人は岩のようになった譲二に聖水をかけた。そうか、これで儀式は終わったんだ。俺は本当に守護神になったんだ。譲二はそう思った。周囲には羽をつけた小さな人型の生き物がたくさん飛んでいる。森の妖精たちであった。妖精なんておとぎ話の中だけの空想かと思っていたが、本当に実在するなんて。譲二には驚くことばかりであった。また不思議なことに、言葉はなくとも妖精たちが自分を祝福してくれていることが伝わってきた。そして、さっきからずっと感じているのは、"あの感覚" であった。守護神になったことで、常に "あの感覚" に包まれ続けていられるのだ。ついに夢が叶ったんだ。それは譲二にとってまさに頂点であった。
セブンスヘブンと言うのはまさにこのことなのかもしれない、と譲二は思った。あれからずっと "あの感覚" に包まれたままなのである。多幸感がずっと続いている状態だ。痛みも苦しみも不安もなければ、疲れを感じることもない。だからこそ、常に針葉樹の森に癒され続け、森を敬い、尊び、心底この森に真髄する自分がいた。そして、自分の存在そのものが、針葉樹の王国に調和と均衡をもたらしていることをひしひしと感じることができるのだ。そう、まさにこの気持ちでいることが重要であり、それがライフワークなのだ。本当にこれ以上の幸せはないと思う。そして何より針葉樹の王国の民たちの幸せを一番に願っていると心から思えるし、それを担っているのは自分なのだと言う強い自覚もある。冷静に考えると、それは責任重大なことかもしれないが、今の自分にとっては全くもって難しいことではないのだ。自分に余裕があると、人はこうまで優しい気持ちになれるんだな。譲二の精神状態は極めて落ち着いていた。これが守護神になると言うことなんだ。譲二は自分の運命の全てに感謝したい気持ちだった。
守護神となった譲二は、肉体は岩になっていても、精神は常に自由であった。森の中の至るところに行くことができるし、もっと言えばその場に行かなくてもどこで何か起こっているかを感じることが出来た。森の民たちの様子だけでなく、動物たちの営みまでも全て感じることが出来るのだ。全てがわかってしまうと言うことは、裏を返せば悪いことも感じてしまう。森には当然生態系があるゆえ、強い動物が弱い動物を捕食する場面もあるだろう。あるいは、森の民たちがつまらないことで互いに争う場面も見えてしまう。しかし、譲二はそれを辛いとは思わなかった。それは譲二自身が守護神であることに対して強い自覚と自信をもっているからだった。守護神の岩は森の中心にあり、森の民たちは時々祈りを捧げにやってくる。祈りだけではない。願い事から日々の愚痴まで様々である。まるで人生相談のようだと譲二は思った。しかし、それに譲二が答えることはない。譲二は直接民たちと話すことができない代わりに、森の守護神として森を守ること自体を施しとするのであった。少なくとも譲二はそう思っていた。
ある日、一人の男が守護神の岩にやってきた。男は岩の前に座ると静かに語り出した。
「守護神であらせられる譲二様、どうかお聞きください。私は今はヘキガン王に仕えておりますが、以前シュモール様のお側にいた者です。ここにシュモール様が死の間際に私に託された手紙があります。これを内密にここに届けるように仰せつかっておりました。」
そう言って男は紙切れをかざし、ゆっくりと読み始めた。
「これを読んでいる頃はもう兄さんは森の守護神になっているはずだ。これから話すことは全て真実だ。どうするかは兄さんに任せる。俺は、身勝手な考えのために自らの父を殺し、俺を魔法で操って父である王ホルデンを殺させたヘキガンを、どうしても許すことが出来ない。だから命が助かったら、いつかこの手でヘキガンを殺すつもりだった。しかしもう遅い。俺はまもなくヘキガンに殺されるだろう。ヘキガンが王になることは父ホルデンも納得していたことだが、そもそも針葉樹の森の王国は、やり方そのものが間違っていると思う。今、民たちが平和に暮らせているのは、全て魔法の力だ。兄さんは守護神になって、もしかしたら満足しているかもしれない。しかし、それは森の生贄となっただけなんだ。肉体はすでに死んでいる。森に精気を吸い取られ死んだのだ。今は精神だけが生き続けているだろうが、それは亡霊にすぎない。兄さんも魔法によって守護神が天職のように思い込まされているだけなのだ。そして王国は守護神と言う生贄のおかげで存在していられる。つまり生贄を出すことで森の力を借りて "特別な魔法" をかけられると言うことだ。その魔法は民たちをマインドコントロールしている。民たちは貧しく、外の世界へ出ることが禁じられている。外の世界に興味を持たないように、そして貧しさを苦と感じないように、魔法で操られているだけなのだ。そして王宮だけが私腹を肥やし贅の限りを尽くしている。そんな不平等な世界が果たして本当に正しい世界なのだろうか?俺はこの国の秩序を根本から変えてやろうと思った。生贄も魔法も必要ない、"騙されていない世界" を。しかし、自分にはそこまでの器量はなかった。甘かったのだ。だから今このザマだ。今となっては何が正しいのか、どうするのが良かったのか、皆目わからない。もしかしたら、今のまま、そのままが一番幸せなのかもしれないとも思う。ただ、王国の現状と、俺の本当の思いだけはわかって欲しい。そして、兄さんも守護神と言う名の生贄である自分の境遇を、十分に理解していて欲しい。」
聞き終えた譲二は驚愕せざるをえなかった。頭が混乱してとても穏やかな気持ちではいられなくなっていた。何よりシュモールは自ら命を絶ったのではなかった。ヘキガンに毒をもられて殺されたのだ。それに、針葉樹の森の民たちは魔法によって操られ、貧しく制限された生活が幸福であると思い込まされている。そして王宮だけが贅の限りを尽くしているだなんて。まるで身勝手な独裁社会ではないか。そしてさらには、その世界に均衡をもたらしている存在が守護神である自分であるとは。譲二は急に後めたい気持ちになると同時に、ふと昔の記憶が蘇ってきた。製薬会社に就職し一時は将来を有望視された若手だった自分が、いつしかバブルが崩壊し、世の中のIT化が加速する中で取り残されていったこと、そして会社が外資系となり、英語を公用語として仕事をしなければならなくなったあたりから、もう限界だった。自分の立ち位置を見失い、自分の存在意義や存在価値にある種の絶望感を抱いていた。自分は明らかに必要とされていない、むしろお荷物だったあの頃。そう、あの頃から "森の夢" を見ていたっけ。森の夢が唯一の癒しであり、逃げ場だった。そしてまたしてもこの世界で自分の存在意義に疑問符を投げかけざるを得ない状況に置かれている。今はどこに逃げれば良いのだろうか?いや、逃げ場などない。と言うより逃げてはいけない。自分は守護神である。問題に立ち向かうのだ。しかし、そもそも自分は単なる生贄ではないか?針葉樹の森そのものに捧げられた "お供え" に過ぎない自分に何ができると言うのだ。譲二の魂は森の中を彷徨いながら、かつてそうであったように、自分の存在意義を探していた。
悩み彷徨ううち、譲二は徐々に平常心を失い、怒りと絶望が心の中を満たしていった。許し難きはヘキガンだ。彼は愚かなことに自身の父ゴディアン二世を殺し、シュモールを操って王ホルデンをも殺させた最悪な男だ。その最悪な男を信じているアーシャも不便でならない。待てよ、もしかしたらアーシャだって少しは知っていたのかもしれない。彼女は読心術が使えるはずだから、ヘキガンの心を読めないわけはない。魔法のペンダントを持っているじゃないか。彼女だけは信じてやりたいが、ここまで来ると彼女もグルだと考える方が合点がいく。針葉樹の森の "あの感覚" に魅せられた俺などは、彼らのにとって最も都合の良い操り人形に過ぎない。俺にシュモールを殺させ、守護神などと都合の良いことを吹き込み、実は生贄だったなんて。うまく利用されていただけなのだ。譲二の怒りは頂点に達し、もはや守護神という立場を完全に忘れていた。その時、あたりは不穏になり始めた。空は俄に赤くなり、赤い雨が降り始めた。風も強くなり、やがて嵐になった。森の妖精たちもいつしか姿を消してしまった。守護神である譲二の怒りがそうさせているのか、はたまた針葉樹の森そのものが譲二の精神の動揺を戒めているのか、それは誰にもわからなかった。
針葉樹の森はかつてない程荒れていた。赤い空から降り続ける赤い雨は止むことはなかった。森を流れる川は赤く染まり、やがて宮殿の崖下を流れる川も赤く染まった。そして嵐は一層激しくなり、雷鳴が轟いた。ヘキガンもアーシャもそれが意味するところはわかっていた。また今譲二と話し合っても無駄だということもわかっていた。こればかりは譲二が自分自身で結論を導き出すしか解決策がないということを。王と王妃は抱き合いながら、森に向かって祈り続けるほかなかった。譲二にもその様子は見えていた。憎しみの矛先が向けられた二人がどれだけ祈りを捧げようが知ったことではない。そう思いながらも、譲二の心は揺らいでいた。騙されたにしろ生贄にしろ、自分は守護神となり、この王国にバランスをもたらしている。自分がいなければ、この世界が成り立たないのだ。そう、森の運命は自分が握っているのだ。ヘキガンもアーシャもこの世界が終わって欲しくないからこそ、祈り続けている。譲二はなんだかそんな二人がとてもちっぽけに思えて来た。そう思った次の瞬間、譲二は突然 "あの感覚" に包まれたのだ。自分は穏やかの針葉樹の森の中に一人佇んでいる。鳥のさえずり、木々のざわめきを聞きながら、とても優しい気持ちになっている自分がいた。そんな "あの感覚" がフラッシュバックするように意識に入り込んで来たのだ。この後に及んで何なんだ一体。譲二は戸惑いを隠せなかった。それでも譲二は森の中を彷徨い続けていた。時間が経つにつれ、行き場のない思いはヘキガンやアーシャへの疑念を超え、自分自身への自己嫌悪にも似た感覚へと変わっていた。そしてその間ずっと、そこかしこから森の生き物たちの悲鳴が聞こえている。このままでは森は死に絶えてしまうだろう。自分が森を終わらせることもできるのだ。そうだ、何もかも終わらせよう。この手で全てを終わらせてしまえばいいのだ。宇宙の中で一つの星が寿命を迎え、爆発してガスとちりになれば、その後は何もなかったかのような闇が支配するだけ。そこには喜びも愛もない代わりに憎しみも苦悩もない。そう思った譲二はいつの間にか森の中心へと向かっていた。森の中心で、守護神の岩の前でことをなそうと考えたのだ。守護神の岩に近づくと、そこに多くの民たちが集まっているのが見えた。おそらく彼らは何が起こっているのかわっていないであろうが、皆ただ漠然と森の怒りと認識し、それを鎮めるべく守護神の岩に祈りを捧げているのだ。それを見た時、譲二は再び動揺を覚えた。民たちは守護神である自分に祈りを捧げている。皆、自分を頼ってくれているのだ。そう、たとえ一連の由々しき出来事が王家の企みであっても、民たちに罪はない。民を守るのが守護神としての自分の務めではないか。そう思った次の瞬間、再び "あの感覚" が襲って来た。森の奥に自分はいて、目を閉じている。森の息遣いが聞こえてくる。そして動物たちの営みや民たちが懸命に生きようとする様がすぐそばで感じられた。譲二はいつしか純粋で無垢な気持ちに支配されていた。しかし、気がつくと "あの感覚" は消え、また嵐の森を彷徨っている自分がいた。その繰り返しなのである。
この事態をいかに収拾すべきか、ジレンマに陥いったジョージの精神はまだ混乱していた。何が正義で何が悪か?もはや誰を信じて良いのかわからないだけでなく、どうするのが正解なのかも分からなくなっていた。そんな中でも再三にわたり "あの感覚" が譲二を包み込んだ。森は一体自分に何を訴えたいのだろうか?何をせよというのだろうか?疑念や憎しみの裏で、ただ一つ言えることは、守護神として自分に何ができるか、いや、自分は何がしたいか、を考えることが今は重要なのではないかと。譲二は可能な限り冷静になろうと務めた。
そもそも、父ホルデンは自分をこの世界に呼び戻し、どうしたかったのだろうか。ヘキガンが王となり、アーシャが王妃となり、自分が守護神となる。それで国が治る。たとえそれが魔法に支配された理不尽な独裁社会であっても。ホルデンはそれを理不尽とは思っていないのであろう。それを愚かな王だと言えばそれまでだが、そもそも最も安定する状態に落とし込もうとしたまでのことだ。ただ、おそらくホルデンも予期していなかったのが、ヘキガンの暴走だったのだろう。ヘキガンは王としてのカリスマ性がある人物だ。しかし、あまりに身勝手な部分が目立つ。ある意味俺も騙された一人だ。騙され続けてここまで来たと言っても過言ではない。とは言え、不思議とヘキガンに対して恨みを覚えては来なかった。どう言う理由であれ、結果として自分が求め続けていた針葉樹の森で "あの感覚" の中においてくれたからである。それが守護神であろうと生贄であろうと、そんなことはどうでもよかった。そう言った意味ではヘキガンには感謝している。ただシュモールのことに関しては別だ。俺の弟を殺した相手であるヘキガンを自分は許したわけではない。その意味では俺は嘘をつかれ、裏切られたのだ。裏切られたのはアーシャも一緒だ。彼女の気持ちを考えるとヘキガンに何かしらの天罰を与えるべきだと思う。しかし待て。ヘキガンの立場ではどうか?ヘキガンは自分の王の座をゆるぎないものにするために命をかける。それは針葉樹の森に平穏をもたらすためだ。過去の歴史を見てもわかる。大きな権力を潰し、別の権力がとって替わろうとする時は、常にたくさんの血が流れて来た。それは悲しいことだが、それを乗り越えなければ世界は変わらない。ヘキガンもただその歴史のセオリー通りに責務を全うしたまでのことだろう。シュモールを排除しておかなければ自分が殺られ、再び世が乱れるのだから。そして勝った者が歴史を紡いでいく。勝者の歴史として。そう考えてみればヘキガンを恨んでも何も解決はしない。ではシュモールはどうであろうか。彼はある意味革新的な考え方を持った人間だった。しかし自分と似て詰めが甘く、世界を変えることは出来なかった。まして、針葉樹の森と言う強大な "神" の前にはなす術もなかったであろう。所詮人間はちっぽけなものだ。人間はこの地球上で生態系の頂点に君臨し、まるで世界を征服したかのように思っているが、本当はそうではないのかもしれない。例えばこの針葉樹の森の中においては、ただ森と言う "神" の掌で踊らされているだけなのであろう。こうして物事は方向を変えて眺めてみれば、誰も間違ってはいないのかもしれない。そう、物事は見る方向によって、立場によって善にも悪にもなるのかもしれない。もはや善が支配しようが、悪が支配しようが、平和に物事が進んでゆくのなら、それで良いのではないか。誰が悪で誰が善かではなく、皆一様に悪でもあり善でもある。そして歴史の流れを、運命を変えることは誰も出来ないのだ。そう思った時、譲二は気がついた。このままで良いのだ。この運命を受け入れて、これからも森の守護神として存在し続けるべきなのだと。そして、その時はじめて、自分が針葉樹の森の守護神であることの本当の意味を見いだした気がした。それが本当の自分のあるべき姿だと、、、。
気がつくと、嵐は止み、赤い雨は上がっていた。譲二の心は完全に落ち着きを取り戻していた。
心地よい風が吹いてくる。針葉樹の森の中に彼は立っていた。耳を澄ますと、木々のざわめき、小鳥のさえずり、そして風がかすかに流れる音、、、それ以外は何も聞こえない。そのとぎすまされた空気の中、そっと目を閉じると、不思議なくらい彼の心は落ち着いていた。そしてこのまま、ずっとここで大きく呼吸し続けたい、そんな気持ちになるのだった、、、。
完